茶道男子ブログ

Since 2010.5.15 茶道サークルです。

2013年 8月 24日のお稽古の記録

管理人は、想像力が欠如しているためか、経験したことがないことを、語るのが苦手です。
座禅も禅問答も経験がなく、道元栄西も知りません。
また、禅宗のお坊さんに、知り合いが一人としていません。
ですから、『禅』の『悟り』がどのようなものであるか、語ることは気が引けるのです。
しかしまあ欠如した想像力を駆使して、敢えて『悟り』についてカキコムと、『ルビンの壺』の反応に似たような心の動きではないかと思うのです。
『ルビンの壺』とは、↓です。


見ようによっては『人の顔』にあるいは『壺』に見えるという、心理学でよく使われる絵柄です。
ある日ある時、何かをきっかけとして、今まで見えていたものがまったく違ったものに見えてくる。
見ている対象が変わったわけではないのに、そのように見えてくる。
その瞬間、その一瞬の閃きのようなハッとした『感覚』『心の動き』を、禅宗ではもったいつけて『悟り』と命名したのではないかと、そのように管理人は想像しているのです。

さて、実は『悟り』の話がしたかったのではなく、本題はこれからです。


これは、MOA美術館にある仁清の国宝
『色絵藤花茶壺』です。鮮やかな色彩、絶妙な構図、そして桜でも蓮でもなく藤の垂れ下がりのモティーフ。世界中の誰が観ても美しいと感じる陶器です。


これは大徳寺にある国宝『喜左衛門井戸』。はたして、これが美しい陶器かどうかのテーマです。管理人は昔から木星に似ているなぁ、と思っていました。が同時に、これはもう美しさをも超えたオブジェであると、ひれ伏しております。
『ルビンの壺』がどのように見えるかの話に似ていませんか?
『美』と『醜』が紙一重で、オチコチの顔を覗かせる。

『美』の顔がはっきり見えたとき、茶道具の『美』が、禅宗の『悟り』のように閃くのかもしれませんね。
管理人がどこまで茶道具を知っているかは棚上げしてのお話しでした。

では、『喜左衛門井戸』の『美』がどう言うものか。
比率とか、角度とか、色度や彩度の問題とか、言葉として語れるものがあるのか。
話がそう展開するのが自然です。
しかし『美』は、対象が放つオーラをとらえる個々人の気構えの問題のように思えます。
「花の美しさはない。美しい花があるだけ」と小林秀夫は言い切りました。

なんだか、禅問答のような『お稽古の記録』の出だしです。





花:槿に矢筈ススキ




薄茶(平点前) k3 k2 
薄茶(茶巾絞り)y1 y2 h1
濃茶 s1 正客 y2 詰 h1



先生、ご持参の細棗。
『鳴子』に『雀』。
夏の平茶碗には、この背高ノッポの薄器を置き合わせるのが、いいそうです。

お茶は『遠山』に盛ります。







薄茶のお菓子 
徳島栗尾商店『阿波鳴塩 アワナルシオ
岐阜田中屋せんべい総本家『黒主 クロヌシ』



作:伊藤 満(イトウ ミツル)






先生、ご持参の茶入 石田陶春(イシダ トウシュン)作の『耳付茶入』。
丹波焼。仕覆は『金剛金襴』。




松江彩雲堂『野菜羹 トマト』。
チョッピリ酸味に効いた、夏らしいお菓子でした。