茶道男子ブログ

Since 2010.5.15 茶道サークルです。

2013年9月 21日のお稽古の記録

管理人は、『茶入』の味わいを、あまり理解していません。
正直なところです。

武野紹鴎千利休の時代には、『茶壺』と『茶入』が重んじられたそうです。

現代は『茶壺』や『茶入』より、『茶碗』に関心が集中している感がありますよね。
利休の時代は、『茶碗』は二の次の道具であった、のにです。

戦国時代に、「この『茶碗』の替わりに、拙者の命、助けてもらえまいか・・・・・。」ではピンときません。やはり命の引き替えは、『茶入』のほうが様になります。

ところで、『茶碗』の味わいは、管理人にもなんとなく感じるところがあります。
分かり易いからですよね。

特に管理人は、グロテスク趣味も手伝ってか、『井戸茶碗』が好きです。
まさか、本物を持てる身分でもないので、美術館でガラス越しに、遠巻きに、「いいなぁ〜」と拝見しているだけです。

『井戸茶碗』は、大昔、朝鮮の庶民が普段使いの器として焼いたものです。
ですから、『白磁』や『青磁』などとは全く違って、氏素性がはっきりしない下等な陶器です。
お金持ちや貴族の趣味にかなった、技巧も作為も、全くありません。

無骨です。純情です。
自然のまま、その辺の石ころなどに近い存在です。偶然の産物です。
偶然の産物ですが、時々「アレッ!」と面白いものが焼けたりしました。
マグレと言うやつですね。

当然、面白くないものは山ほど焼けました。
それらの面白くないものは、いつとはなく無くなりました。
しかし、「なぜ」か「やはり」か、「アレッ!」と面白いものは残りました。

この「アレッ!」と面白いものが、日本の茶人の目にとまったのです。
日本の茶人にだけ、なのです。
ですから『井戸茶碗』は日本にしかありません。
(隅から隅まで探せば、韓国か北朝鮮の田舎には、一つぐらい残っている可能性はありますよ、確かに。)

ところで、『井戸茶碗』には作為がないので、自然のナマの姿をそこに見るようです。
「高い精神性で大自然を写し取った」とか屁理屈をカマした芸術作品も、作為が見え隠れしたらナマナマしくない訳です。ナマナマしくないと飽きます。つまり深みがないのですよね。
造花は飽きるけど、生花は飽きない、そんな感覚に近いです。
管理人は、グロテスク趣味も手伝ってか、ナマナマしくて作為のない『井戸茶碗』が、大好きなのです。

今まで見たきた『井戸茶碗』で1番よかったのは、国立博物館の『有楽』です。
2番目は、静嘉堂の『越後』。
この2碗は、国宝『喜左衛門井戸』より感銘を受けました。
3番は今のところないです。

井戸茶碗『有楽 うらく』

井戸茶碗『越後』




管理人は、『紅葉した柿の葉っぱ』がこの上なく美しいと思っています。
複雑な表情で、その一葉は、いろいろなドラマを物語っています。
『井戸茶碗』を見るたびに、『柿の葉っぱ』をイメージするのですよね、なぜか。




花:紫式部・萩・芒





割稽古 n1
薄茶(平点前)k1 k3 y2 
濃茶 h1 正客 k1 詰 y2



薄茶の菓子は、奈良松屋本店『菊の香』と金沢諸江屋『菊花せんべい』






茶碗正面 岡田華渓(おかだ かけい)あかね窯.こう言う、月に芒のモティーフの柄を、『武蔵野』と呼ぶそうです。

茶碗向側

茶碗高台



蓋置:ポルトガル磁器






『糸巻棚』は、地板を置けば、水指を置きつけたお点前が出来、地板を外せば、水指の運びのお点前が出来ます。






薄茶で、『薄器 棗』と『茶杓』を拝見に出した場合と、戻した場合の位置です。
『薄器 棗』は畳目7つ7つ、『茶杓』は畳目3つの位置に出します。
向かって左側が、亭主の坐る位置です。

出す位置。


戻す位置。






取り回した『菓子器』や『茶碗』は『お詰』が茶道口に出します。
メインとなる道具が、壁側(柱付)に戻されます。

障子、襖が閉まっている場合は、開けた亭主がすぐに気づくよう、壁側に近づけて戻します。


障子、襖が開いている場合には、茶道口の中央寄りに戻します。




濃茶で、『茶入』『仕覆』『茶杓』を拝見に出す位置と、戻す位置です。
向かって左側が亭主の坐っている位置です。
出す位置。


戻す位置。




お稽古の後に、『誕生日』のお祝いしていただいて、本当にありがとうございます。

まさか、ケーキを用意していただいたなんて、驚きです。
人を喜びで驚かすなんて、まさに茶人ですよ。