『ワビ・サビ』は、お茶(数寄の道)を語る場合に、欠かすことの出来ないキーワードですよね。
日本人なら、肌感覚として感じられる概念でもありますよね。
しかし、この『ワビ・サビ』を明瞭に説明してくれと頼まれると、
誰もが困惑してしまう概念でもありますよね。
困惑する理由は、『ワビ・サビ』の実像を曖昧にしているイデオロギーのせいだと、
管理人は勝手に思い込んでいます。
そのイデオロギーとは、安っぽいヒューマニズムや平等主義です。
お茶(数寄の道)は、
権力者やお金持ちが、様々なものに飽き飽きした挙句、
「貧乏人の真似事をして風流を味わおうやないか、オモロイかもしれへんでぇ」と始めたものです。
『ワビ茶』の創始者、村田珠光はお茶(数寄の道)のイメージについて、
次のような言葉を残しています。
「藁屋に名馬つなぎたるが良し。」
ボロ屋に駄馬ではダメなのです。
ボロ屋に高価な名馬をつなぐとイイ感じだ、
とそう珠光は言い切ったのです。
つまり『ワビ茶』とは、潤沢にお金をかけて「貧乏人の真似事」を楽しむ、酔狂な遊びだったのです。
多分、マリーアントワネットが、プチ・トリアノンで田舎遊びをした感性に近いものです。
これが、『ワビ・サビ』の本質です。
つまり、『ワビ・サビ』というあの雰囲気は、富裕に裏打ちされたウイットやセンスのことです。
しかし、『ワビ・サビ』のこの本質を、白日の下に、露々歴々と曝した場合、
茶道にあるかもしれないと思わせている、(博愛主義的な?)精神性が、根底から揺らぐ訳です。
ですから、『ワビ・サビ』は靄に隠されて、説明しにくくなっているのです。
権力者やお金持ちが、お根性として貧乏っぽくするのは、『おケチ』と呼びます。
『おケチ』と『ワビ・サビ』は、別物です。
もう一つ、管理人のように貧乏人が、貧乏っぽくするのは、『実生活』です。
『実生活』と『ワビ・サビ』も、当然、別物です。
これは、ハッキリ区別する必要がありますよね。
『ワビ・サビ』と言う言葉そのものに限定すれば、
ディレッタントで高踏的な、差別用語の一種のように、管理人には思えてなりません。
ですから、ゆめゆめ、安易に使ってはいけない言葉です、『ワビ・サビ』は。
ところで先日、テレビで、数寄の道(お茶)では非常に高名な方が、
『世界平和』と『人類愛』を茶道こじつけた発言をしていらっしゃいました。
思いつかれたのでしょうねぇ。
聞こえは耳に心地よく、立派なこじつけなのですが、どう考えても無理があります。
解釈の仕方は個々人の自由ですが、流石にねぇ・・・・・・、と思います。
こう言う種類の安易な発言が、
ますます『ワビ・サビ』の本質を濁らしている、
と思うこの管理人は、相当なヒネクレ者なのでしょうか?
新暦の10月を茶道では『名残の月』と言います。
11月からは炉になります。
つまり10月は、風炉の最後の月なので、
風炉の風情もいよいよ最後だ、
名残惜しいと、
楽しむ月なのです。
花:竜胆・紫苑・せいたか泡立ち草・ホトトギス・紫式部・水引・芒。
このように、籠に多くの種類の草花を盛るのは、『名残の月』の入れ方です。
虫食いや枯れた葉っぱを入れてもよいとされます。
場合によれば、30種類ぐらいの草花を入れてもいいそうです。
k1さんに、入れて頂きました。
そして『名残の月』では、『中置 ナカオキ』と言うやり方で、
お点前が進みます。
『中置』は、風炉の位置がお客様に近づきます。
つまり畳の中央に、風炉が置かれます。
肌寒くなる時期なので、火の気をお客様に近づけると言った配慮からの配置です。
これが、『中置』の置き水指の配置です。
水指は、場所が少なくなるので長細い『細水指』が使われます。
薄茶(中置)k1 k2 y3 n1
濃茶 y2 正客 h1 詰 k1
また『名残の月』には、直し物の茶碗なども使われます。
京都『和楽』の楽茶碗です。
薄茶の菓子は、京都亀屋『焼きあづき』長野利久堂『あんず姫』。
菓子器は、正客前の、畳の縁の2つ目に出します。
この薄茶の菓子を食べる場合、
正客は次客に器を少し寄せ、「お先に」と挨拶をして、
器を再び自分の前に持ってきて、亭主に、
「お菓子を頂戴します」と言ってから、ワを手前に折り上げたした懐紙に取ります。
濃茶の菓子は、板橋かぎや『スイートポテト』。
器の選択ミス、菓子の配置ミスで、たこ焼きのようになりました。
すみません。