茶道男子ブログ

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2013年 5月 26日 のお稽古の記録

秀吉が……、
なんて文章を始めると大袈裟なんですが、チョットだけ話しを聞いて下さい。

チョットと言いつつ、長いので、興味なければ、献立の画像まで文章は飛ばして下さいね。

秀吉が、朝鮮攻めの司令部をいたのは、九州の名護屋城です。(名古屋ではないです)
その名護屋城から、生母大政所に宛てた手紙の中で、「利休の茶にて 御膳もあがり 面白く芽出度く候まま・・・・」とあるそうです。
この手紙は、利休切腹した翌年に書かれています。

ところで全く余談ですが、切腹は、秀吉が美化させ様式化させたもので、近世になってその儀礼化が加速します。

秀吉切腹を美化させた意図は、こうです。
まず切腹は、例えば城主とかの代表者が腹を切って責任をとれば、部下のほとんどが許されると言う前提があります。
そしてその前提には、次ぎのようなメリットがあったと言われています。

1.無益な殺生の必要がない。
2.敗色濃い側の武士の心理からすれば、代表者が腹を切ってくれれば、自分達は助かる。なら早く戦いを収束させたい、と言った厭戦気分を高める。
3.必要以上な処刑による時間と経費などが節約できる。

このメリットを充分に発揮させるためには、切腹に美しいまでもの悲劇的で英雄的な演出が必要だったのです。
それは、腹を切る側にも、見守る側にも、ハレがましい陶酔感がなければ最後の望みが断たたれるからです。
秀吉は知恵者でした。
ちなみに、三島由紀夫の姉貴は、切腹に漂うヒロイニズムに惑溺し、市ヶ谷のバルコニーで滑稽劇を演じた後、エロスとタナトスに抱かれて腹に刀を刺しました。
取りようによったら、秀吉の罠に引っかかった姉貴です。

さて、権謀術策の渦巻く室町末期から戦国時代。
武将達は、人をどのように籠絡すればいいか、その手法を血眼になって探し始めます。
その手法の一つが「もてなし」です。

この「もてなし」に画期的な策を弄したのが、千利休です。
管理人は現代に続く「茶道」は、この「画期的な策」に尽きると思っています。
そしてその策とは、「高尚なオママゴトであった」と管理人は勝手に信じています。
ただし、この「オママゴト」をダイの大人が大真面目にやるには、多少の想像力が必要ですが…。

秀吉の手紙にある「利休の茶(この時代は茶道と言う言葉さえなかったのです)」は、
「熱いものを熱く、程よいタイミングに、程よい量だけ出される献立」
のことです。

それ以前の「もてなし」とは、本膳料理に代表される過剰な「もてなし」でした。(観るだけの料理さえ並んだのです。。。。)

実は、この権力者に対しての「熱いものを熱く、程よいタイミングに、程よい量だけ出される献立」のシステムは画期的でした。
つまり毒味などの手順を経ずに、セコク勿体付けて少しづつ料理を出すのです。
権力者へです。
これは逆転の発想で、利休はこのパラドックスを面白いものに仕立てたのです。

利休に賜死を下し(上位者からの切腹の命令は名誉なもので、賜るものでした)た秀吉は一年後に、「利休の茶」を面白いと楽しんでいます。
利休の発想を「面白い」と支持しパトロンとなり、おだて上げた挙句、生意気だと殺した利休の趣向を「面白い」と楽しむ、そんな秀吉は茶道史上、利休に次ぐ数寄者であった、と管理人は思っています。
死ねと言われて平然と死んだ利休が一番で、意地悪く片目を吊り上げて死ねと言った秀吉が二番だと。
この駆け引きがあったおかげで、単なる「高尚なオママゴト」は、誰一人答えを出す事が出来ない曖昧な精神性という名の言葉の靄に身を隠す事が出来た、のだと管理人は個人的に思っています。

ちなみに当時の「面白い」とは、「情緒豊か」といった意味で、ゲラゲラ可笑しいと言った意味ではないですよ。

今回のお稽古は、この「利休の茶」に近い、「お茶事」のお稽古でした。
では、「茶懐石」から、ご紹介していきますね。
管理人が興味本位で調べた「利休の茶」に、管理人の偏見と想像も絡めて、「懐石」を「解析」しますね。。。。。。


軸:「清風」先代の手によります。


香合:当代の手によります。
袱紗:源氏車。

まず、「汲み出し」です。
利休の時代には、この「汲み出し」なかったのではないかと思っています。
管理人は、風炉の季節にはハーブティーを出します。
今回は、ミントティーです。



味噌汁 焼き茄子 赤味噌仕立て。
利休の時代の出汁は、せいぜい昆布か煮干し。
鰹と昆布のイノシン酸グルタミン酸の混ざった複雑な味は、江戸時代後半から特別な階級の人のみ許された贅沢な味です。

向付  独活とアスパラの、木ノ芽味噌かけ。
例えば京都の街中を想定して、利休の茶で「もてなし」を目の前に見たとします。そこには、現在よく向付に出される刺身などは、不可能でした。
新鮮な魚は、京都では手に入れる事は出来ませんでした。冷蔵保存が困難な時代では、たとえ堺でも、(江戸時代のような)流通体系が整っていない戦国時代では刺身は無理かと想像します。せいぜい冬場に、若狭で〆た魚を早馬で京都に届けさせ、それを膾(ナマス)で出すのが、精一杯だったでしょう。この季節は、このような菜の物であったと思います。

茶懐石ならではの、ご飯と味噌汁の盛り方です。
ホンの少し、椀の底に沈んでいます。
この盛り方を利休が考えたとしたら、茶室の躙り口などの発想より、凄い事です。
戦場で、ぶっ掛け飯を食べていた武将達には、頭を殴られるような衝撃であったと想像します。



盃事が行われます。



椀ものは、海老シンジョウ。
y1さんの音頭で、皆で作った海老シンジョウです。
シンジョウの上には、強めに甘く味付けた蕨が乗り、三つ葉を添えました。
利休の時代の椀物は、鳥が多かったそうです。
現在よく使われる練り物ではなかったようで、鳥と言っても、鶴、白鳥、鴨、雁、雉などの野趣溢れる味を楽しんでいたようです。



焼き物は、鮭の西京漬けです。
利休の時代、焼き物も鳥が多かったそうです。
とにかく、京都では川魚や干物は別として、新鮮な海魚は不可能でした。
初秋から冬場は、塩からい魚か、味噌漬けされた魚が出されたと想像します。



強肴は、水菜とサヤインゲンと茗荷のピーナッツ汚しです。
利休は強肴を「引き物」と言って、必ず一品か二品、出したそうです。


小吸い物です。


八寸は、鮭薫製の酒浸しと、サツマイモです。
八寸と同時に、千鳥の盃が行われます。



香の物と湯斗です。






菓子は、中に葡萄(ピオーネ)一粒が丸々入っている金沢「村上」の葛饅頭です。
現在のような、甘い菓子は元禄時代以降のものです。
利休の時代の菓子とは、昆布や椎茸、栗や干し柿、そのようなものです。
砂糖が一般化していない当時の甘味は、驚愕的な味覚だった筈です。
あと利休は、「麩の焼」と言うものを、しばしば菓子として使っています。これとて、現在の菓子に比べたら決して美味しいものではありません。虎屋などで、時々「麩の焼」を目にしますが、現代人の口に合ったものに変わっています。

ここまでが、初座と言う、懐石を食べる席になります。
軸が巻き上げられ、花が飾られ、後座が始まります。


花:芍薬・黄花提灯(サンダーソニア)・釣鐘鉄線(クレマチ)・瑠璃虎の尾(ベロニカ)・利休草



後座のお道具は総て先生のものです。
では、お道具の紹介をします。




主茶碗:朝日焼 先代の銘「せせらぎ」


替茶碗:朝日焼 先代の自画「不二山」


替茶碗:あかね焼 先代夫人の自画「あし」




水指:オーストラリア産 先代の銘「さざなみ」



蓋置:萩。宗家15代 坂倉新兵衛(初代は朝鮮から連れてこられた李勺光。6代目より坂倉の苗字を名乗った)。片輪車。


茶入:瑠璃金彩雪茶入 仲村章
仕覆:朝倉間道 


平棗:島田其翠(描金師)


茶杓:立花大亀 銘「いわしみず」 




お薄のお菓子:「松江岡三英堂の氷室」と「奈良菊屋の金魚すくい」  



先生、皆さん、本当にお疲れ様でした。。。。。。。