茶道男子ブログ

Since 2010.5.15 茶道サークルです。

2013年 11月 16日のお稽古の記録

ストイックな雰囲気の、あの利休(1522〜1591)のお茶(数寄)スタイルが完成されたのは、賜死前の10年間と言われています。
利休は、長いお茶(数寄)のキャリアの中でも、晩年にあのスタイルを作ったのです。

山崎の合戦(秀吉の天下取りのきっかけになった戦い)が1582年で、その時、利休は60歳。
つまり、あの『待庵』は、利休60歳のお茶(数寄)です。
それまでの利休のお茶(数寄)は、もっと遊興性が強いもの、あるいは格式ばったもの、その両方であったはずです。

利休は、「もっと、もっと」とお茶(数寄)を追求していきました。
「もっと奇異な、もっと斬新な、もっと権力者を喜ばすお茶(数寄)はないものか」
利休は、昼も夜も考え続けました。

考え抜いた結果、『宗教』をテーマに、お茶を確立させます。
『宗教』の中でも、一番ストイックな『禅宗』をです。
確かに、禅宗とお茶は、利休以前から親密な関係にありました。
しかし、お茶(数寄)の主題になるまでの、関係はなかったと、想像します。

このストイックな雰囲気は、利休がいなくても、きっと誰かが、どの時代かの誰かが、作り上げる、なるべくしてなったお茶(数寄)のスタイルでした。
なるべくしてなった。
得てして、突き詰めると言う事は、早かれ遅かれなるスタイルの、完成の過程の事です。

何かと言えば、利休の話ばかりする管理人です。反省。。。。

次世代の、なるべくしてなったスタイルは、また記載します。
次世代の大茶人も、早かれ遅かれ、なるべき事をなしただけです。

閑話休題
リヒャルト・ワーグナーは、『トリスタンとイゾルデ』を作曲しているときに、思わず自分自身に叫びました。
「リヒャルト、お前は悪魔の申し子か!」
作曲中、リヒャルト・ワーグナーの頭の中には、陶酔と破滅の底なし沼のようなメロディーが次々に湧き上がりました。
リヒャルト・ワーグナーは、そんな自分を自分で制御できず、身震いするような歓喜で、悪魔の名前を口にしたのです。

抑えられない衝動で、次々に『美』の尺度を作った千利休の、先輩の先輩、もっと先輩の一人に、一休さんがいます。
あの頓知の一休さんです。
一休さんの有名な言葉に、「仏界 入り易く 魔界 入り難し」があります。

管理人は、文字通りに、あるいは通り一遍に、この言葉を解釈してはいません。
ピンっとクル人もいると思いますが、『美』の創造者の宿命を、的確に言い得た言葉です、これは。
決して、宗教のアフォリズムではありません。

利休は入り難い世界に、足を踏みいれた人の、その一人でした。

管理人は、この自論を最後に、一先ず利休だけに、利休の話題を、お休みます。

略盆点前 h1 n1 k3
薄茶 y1 k2 k1  s1
濃茶 y2 正客y1  詰s1


花:大神楽椿 照葉。





略盆点前をしました。





略盆点前の菓子は、n1さんのお持たせのチョコレートです。
レオニダスチョコレートの『オランジェット』です。





お薄のお菓子は、大心堂『黒糖おこし』 松岡軒『羽二重餅』。





更に、y2さんお持たせの 舟和本店の『切山椒』。





濃茶の菓子は、中津川すや 『栗きんとん』。